おとな
「選べることを知っている」って、強いなと思います。
唐突なる自己啓発、創世風満智留です。そんな時もあります。
子供の頃は学校が全てとは、よく言ったものです。学校が全てというか、家の周りが全てというか。家と学校の往復の中で、友だちはだいたい学校の中か、集合住宅なら違う部屋の子供同士で仲良くなるのが、私の幼少期の風景でした。最近は実家のマンションからも子供の姿はすっかり見なくなって、少子化とともに子供の世界はますます狭くなっているのかもしれません。その代わりに、SNSがだいぶ発達してきているので、画面越しの友だちという選択肢は出てきているかもしれません。
自分の感覚の中で、高校生になったときが、人生の中で一つ自由の殻が破れたというか、選択というものができるようになりました。校区に区切られ指定された学校に行くのではなく、受けたい高校を受験して、受かった高校の中から選ぶ。徒歩しかない通学手段はバス/電車/自転車に広がり、学校に遅くまで残ってクラブ活動に勤しむもよし、図書館で勉強するもよし、早めに帰るもよし。高校生の私は、放送部をかなり頑張っていました。高校の記念行事前、放送部の後輩と真っ暗になった下駄箱を出たら、中庭の時計が午後9時を指し、月光が煌々と私たちを照らしていた時には、「残りすぎたか」という達成感と少しの罪悪感が、今でも懐かしく蘇ります。公立高校の午後9時はさすがに残りすぎです。教頭先生が味方でよかった。
そんな“選択”が可愛く見えるほどには、大学に入ってからはスケールの大きな選択の連続です。アルバイト等で社会人ほどではありませんが、自由に使えるお金は増えました。どこが人生の夏休みなんだよ、言わんばかりに、時間があるようでないのが現代の大学生ではありますが、それでも身体は更に自由にはなりました。これは去年の秋に『新説・銀河鉄道の夜』をつくっていた時だったと思うんですが、稽古終わりに、劇団の後輩の働く銭湯に深夜1時まで居て、終業後の後輩を家に連れ込んで夜食を一緒に作り、呑みながら深夜3時、4時あたりでようやく寝る、みたいな選択ができるわけです。仲良しだね。
わたしたちは大人になりました。選択できるようになったのです。これは子供の頃には持てなかった、新たな力です。京都に住んでたって、望めば山口で演劇できるのが選択の力なんです。
わたしは自由を知りました。自分の良いと思うこと、美しいと思うこと、信じることを選ぶことができます。自分の好きな人、尊敬する人、信じる人を選ぶことができます。そして選んだ先で、為せば成ることを知っています。
「大人になる」ということがあまりに後ろ向きの言葉として市中に普及してしまっているので、今回は少し前向きな話をしてみました。
大人になったわたしたちは、選べるんです。選べばいいんです。自由をあなたと。
(京都なのにわたしと小田さんの関係するビラがいっぱい並んでいたの巻)
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