知的探求
こんにちは!!!!!!!更新が遅れてしまい大変申し訳ないです!!!!今週(ほんとは先週)のにっきを担当いたしますは私です!!!よろしくお願いします!!!
改めましてはじめまして…この度ありがたいことに役者をやってくれと申し出を受けました。私です。数いる中から自分を選んでくれて、しかも当て書きで脚本を作ってくださるなんてこんな嬉しいことが人生であるんですね。Twitterの役者紹介文のお言葉を見て一生ニヤニヤしてます。たった二ヶ月、されど二か月。精一杯頑張ろうと思います!
さて、今回の演目となる『と或るメルヘン』。メルヘンが思考実験という意味だということをおねーさんは初めて知りました。思考実験!ロマンがありますよねー。かくある私も絶賛中二病時代にここら辺を考えて自分が賢くなった気になっていました。パラドックス…は思考実験とは少し違いますが、答えの出ない問に論議を巡らせるという点では似て非なるものかと思います。そこで今回は、私が高校時代勝手に提唱していた創作パラドックスについてお話したいと思います。
その1 納豆のパラドックス
ここに納豆があります。納豆は大抵白米と一緒に食べますよね。ここで少な目のごはんに納豆をかけて食べたとします。納豆がお米を覆い尽くし見た目はso good。米に対して多めの納豆をふんだんに使っているという贅沢感からも食後の満足感は星5になります。素晴らしい。しかしですね、納豆はあくまでご飯のおとも。ご飯のおともは少量で自身の容積より多くのご飯の摂食を可能にするから価値があるのです。私の体感だと納豆のお供指数は1:3。一口でご飯三口はイケる計算になっています。ではこのポテンシャルを活かすために計算通り納豆の三倍のご飯を用意すればどうなるでしょうか。
そうです。
いやきれいに食べれるは食べれるんだけど、なんか見た目だけでいうと納豆少なくね?って感じになります。食べ終わった後も、「いや食べれたは食べれたけど納豆少なかった気がする」って感想だけが残ります。味覚的にはこれが最適解なのに、理論を超越した感情面が不足を訴えてくるのです。つまり食後の満足感を最大限に得るには、常に納豆のポテンシャルより少し低いタスクを課し続けなければならない。反対に納豆のポテンシャルを最大限に引き出してしまうと、我々は納豆に対してうっすらと不足を感じながら生涯を終えることになってしまいます。納豆を愛するが故に食べるはずなのに、納豆のポテンシャルを引き出すことを拒絶するなんで納豆側からしたら屈辱ですよね。以上、納豆のパラドックスでした。
その2 イカのパラドックス
私イカ嫌いなんですよ。ぞうきんとかドライヤーとか、そういう食べれない物体の次に食べたくないのがイカです。でも私の友人イカめっちゃ好きなんですよ。ぱくぱく食べてます。そしてここで疑問が生じます。イカ側からしたら当然、殺されて異種族の食事にされるなどあまり望ましくない状況じゃないですか。イカが嫌いで食べもしない私と、イカが好きなのに残酷にも虐殺の限りを尽くし捕食する友人。いったいどちらが真に「イカを好き」なのでしょうか。イカを忌み嫌い給食のイカリング根絶を訴えていた私の方がよっぽどイカのためになっていませんか。小学生時代、イカリングを拒否して掃除の時間になっても一人食べさせられ続けたり、食べたふりして給食袋に入れていたのがしみだしてきた汁によって発覚してめちゃめちゃ怒られたりした私もそうした信念があって行動していたんですよ。みなさんはどう考えますか。以上、イカのパラドックスでした。
以上が私の新たに提唱したパラドックスになります。いやあ、頭を使うと気持ちがいいですねえ。答えのない問いに思いを巡らせるのも人間の知的営みの一つですからね。みなさんとも大いに語り合いたいな。
最後に今の私が考えた思考実験について書いて締めさせて頂こうと思います。
駐輪場で自転車が連なって倒れていました。たまたま遭遇したあなたは百パーセントの善意から、これを一つ一つ立て直してあげようと考えました。暑い中一生懸命丁寧に立て直し、最後の一つを立てた瞬間その自転車のバランスは崩れ、立て直した自転車はドミノ倒しのように再度倒れていってしまいました。あなたはもう立て直す気力も起こりません。
あなたが立て直さなければ、この自転車たちは二度目の衝撃を負うことはありませんでした。しかし何も知らない第三者が見た場合、あなたが立て直す前と今の状況は何も変わりがありません。この場合、あなたがしたことは「損傷」に繋がるのでしょうか?また倒れる可能性がある場合、あなたはまた立て直すのが正解ですか?あと普通に片足だけスタンドついてるタイプの自転車バランスがミジンコなのどうにかしてほしいよね。
…実体験でした。倒してしまって申し訳なかったです。
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